私とはなんと「ずぼら」なのだろう。
きっと細かいことが苦手なのだ。
手先が器用でないことは認めよう。
料理・片付け・裁縫も出来ない。しいて言えば日曜大工のほうが得意かもしれない。
しかし、切断した木材のサイズは必ずといっていいほどズレまくっている。
釘を打てば曲がる。突き出る。

考えることも苦手だ。
堂堂巡りはいつものことで。
だから、いくら考えたって、自分には答えを導く能力が無いのだと分かってしまっているから
考えるのを止めてしまう。
今度は何も考えなくなる。
少し間を空けて、また考え始める。
堂堂巡りを起こす。
またやめる。

「自分」とはなんと容量の少ない人間なのだろうか。

二日前になる。
中学の部活の面子で集まることになっていた。
今度ばかりは、計画に、手助けしてくれる人はなく。
何度投げ出そうとしたか。
どれほど、自分が何も出来ない人間だったか。
思い知らされた。

電話のコールが嫌い。
人に電話をかけるのが嫌い。
臆病な自分に気が付く。

そのときが、ちょうど不安定だったときだったことは認めよう。
{ときどきあるのだ}

何度も、思い知らされた。

中学のときだって何度も。

頼って・頼って・頼って
自分から問題を吹っ掛けたり、巻き起こしたりするのは得意なのだ。
しかし、あたしにはそれを解決しきる能力は無い。
容量も無い。
いつも、いつも、助けてもらうしかなくて。
そんなことを考えてしまえばまた、堂堂巡りなのだ。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
物事に深い意味はないと、あたしは考えている。
{他人がそうであるかはわからない}
例えば、右に曲がるか・左に曲がるか
    本屋へ行くか・CDショップへ行くか
    カーテンをかえてみたりとか
    結局は「何気なく」「なんとなく」ということもあると思う。

有名な著者の全てが、壮大なイメージを持って、崇高な理想を持って作品を書いているとは思わない。
あたしだって、何かを書く。
「誰かがこれを読んだとき、何かを感じてくれればそれでいいなぁ」
と思って書く。
人間とはこうあるべきと書くのではなくて、
こうかもしれない、こんなのもあるよ。そういう風に書きたい。

だから国語の先生が、「この著者は、この作品を通して、こういうことを伝えたかったのです」と言うと。
おい、本当かそれは! 本人に聞いたのか?
もしかしたら本人は、「なんとなく」で書いたかもしれないぞ。
ただそんな話を書きたかっただけかもしれないぞ。
と思うわけです。

作品から何を感じ取るかなんて、人それぞれでいいじゃないか。
それがあたしのもっとー。    

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